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2009年3月26日 (木)

大遠忌アーカイブズ2

「大遠忌アーカイブズ」の2回目は、「新しい伝統築くべき時」という見出しになっています。

昭和36年に営まれた700回大遠忌法要にて、前年に得度したばかりの、現在の門主・大谷光真氏が非常な注目を浴びて登場した様が記されています。

「現在、京都市立の尚徳中学に在学中で、今春、東京の麻布高校に進学が決定している少年法嗣だが、身長一メートル七十六センチの長身で、目もあざやかな緋の衣に総つづれ織の七条袈裟を着用、柄香炉を手に安倍大悟式務本部長を僧綱という名のお供にしたがえると、はじめての法要参列とは思えぬ風格」

宗門の期待を一身に背負い、門主となって今日に至ります。
その光真門主からは、「危機」という言葉がよく出てきます。
「こういう伝統的な儀式の執行は今後できなくなるのではないか」
「部分的な変化はあっても本質はあまり変わらない法要が今日まで続いていますが、それでよいのだろうかというのが750回大遠忌に向けての大きな課題です」
「お参りされる方々が門を入ってから出られるまでの間に全体的に宗教的、浄土真宗的なものを体験され、あるいは法要に積極的に参加して一緒にお勤めさせていただくという雰囲気がぜひとも必要」
「宗門について言えば『昔は良かった』ということが多いように思います」

門徒が確保された地位に安住し、布教せずとも人は集まる状態が続いていた現状に対し、危機感を表明しています。
では、どうするのか。
それがないので、この記事では悲観的になるしかありませんが、ぜひとも、浄土真宗が息を吹き返す勝縁としてもらいたいものです。

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2009年3月12日 (木)

大遠忌アーカイブズ

約1年前、『中外日報』紙上にて、親鸞聖人750回大遠忌法要へ向けて、浄土真宗本願寺派(西本願寺)を特集した連載がありました。
タイトルは「大遠忌アーカイブズ~五十年の時を隔てて

アーカイブズとは、ここでは“過去の記録”というような意味でしょうが、日本アーカイブズ学会のサイトには、次のように出ています。

アーカイブズは、団体、家及び個人が作成し、収受し、保存されてきた記録からなり、手書きや印刷された紙媒体のもの、電磁的記録のもの、そしてオーラルヒストリーなどからなっている。

まず1回目は、昭和36年(1961)の親鸞聖人700回大遠忌法要の熱気から書き起こされています。
それによると、参詣者は
650回大遠忌 100万人
700回大遠忌  51万人
750回大遠忌  40万人(予想)

だそうです。

ただ、大事なのは、数ではありません。
注目すべき内容がありましたので、長くなりますが、引用しておきます。

 時計の針を再び昭和三十六年に巻き戻す。
 法要中は、法要の様子がよく見える前方の参拝席をめぐり、団参の引率者と誘導の宗務員の間でトラブルも起こったが、アルバイトの龍谷大学生が「ご開山様の前です」とたしなめると、ピタリとやんだという。
 大谷光照門主(当時)が全法要に出座、縁儀ではゆっくりと参拝者席を一回りしたこと、そして"テレビ参拝"の新語も生んだ28台の有線テレビを参拝席の各所に設置したことなどで、観光気分を引きずった人は少なく「本願寺派の参拝者は行儀が良かった」と当時の本紙は伝えている。
 とかく伝統と格式に縛られがちな法要を、形式主義と一言で切り捨てることはたやすいが、約50年前に「ご開山の尊前」に集まった門侶が醸し出した秩序正しさや「ご開山様」への尊崇の念は、700年の歴史と伝統で培われてきた「土徳」だ。

 3年後に迎える750同大遠忌法要では、現代にマッチした法要・儀式のテストケースとし、シンセサイザーを使用し音楽的要素を随所に織り込むことなどが検討されているが、「現代」を意識し過ぎるあまりに「土徳」が喪われてしまう危険性はないだろうか。
「650同大遠忌の時にはもっとお念仏が堂内に響いたものです。寒さのせいもあるのでしょうが、少し寂しい気がしますね」。肌刺す寒気の中で700回大遠忌初日の勝縁に遇った老女性の声を忘れてはならない。


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2009年3月11日 (水)

「僧侶は原点に戻れ」

使い古された言葉ですが、「葬式仏教と揶揄されて久しい」。

朝日新聞の「どらく」で、

お墓――自然葬・手元供養も

という特集がありました。
http://doraku.asahi.com/sonaeru/081226.html?ref=comtop

ここでは、遺骨を土に埋め、その上に木を植える「樹木葬」、粉末にして固めてオブジェにする「手元葬」や、散骨などが紹介されています。

こういう話があると、よく、「宗教離れが進んでいる。これによって寺の経済は立ちゆかなくなる。葬式に依存した体制を改めよ」などと、仏教界に警鐘を鳴らすコメントが目につくのですが、この記事にある、大阪府の僧侶は、ひと味違いました。

お釈迦様は亡くなる時に僧侶に「お前たちは葬儀にかかわってはいけない」とおっしゃっています。 お釈迦様の教えに葬送儀礼はありません。各宗派の開祖は「僧侶が葬儀にかかわり生計を立てよ」と 言わず、逆に厳しく戒めています。僧侶が葬儀に深くかかわるようになったのは江戸時代初期の「天 草・島原の乱」からです。現在、音を立てて崩れるがごとく檀家(だんか)離れが全国で進んでいるの は、僧侶がいわゆる檀家制度にあぐらをかき、お布施と称した金銭を受け取るなど、本来の姿を忘れ たからではないでしょうか。

仏教には本来、葬送儀礼の教えはない、とまで踏み込んでいます。そして、各宗派の開祖が葬儀に関わることを誡めた、とまで書いています。
これを読んだ一般読者は、驚くのではないでしょうか。しかしこれが事実なのです。

では、どうすればよいのか、までは、この僧侶は書いていませんが、僧侶の立場で「仏教=葬儀」を真っ向から否定するには勇気のいったことでしょう。
ぜひ布教に精進していただきたいと思います。

(曹洞宗住職の「鳥や虫の声、風の音に勝るお経はない」という発言にはガクッと来ましたね。お経を“死者のごちそう”レベルに思っているのでしょうか)

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2009年3月10日 (火)

西本願寺御影堂改修終了、間もなく一般公開

浄土真宗本願寺派本山・西本願寺の御影堂は、日本最大級の木造建築ですが、この200年ぶりともいわれる大改修が終わったそうです。

1月21日の毎日新聞によれば、

宗祖親鸞の御真影(ごしんねい=木像)を安置する幅62メートル、奥行き48メートル、高さ29メートルの巨大建築。11年からの親鸞聖人750回忌大遠忌法要を控え、98年から総事業費約55億7000万円で大改修していた。境内の阿弥陀堂に仮安置している御真影が4月1日に戻り、道内が一般公開される

そうです。

多くの人に、親鸞聖人の教えを伝える、聞法道場となればいいですね。

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2009年3月 6日 (金)

「親鸞」の本

Amazon で「親鸞」の本のベストセラーを探すと、次のようになっていました。
(平成21年1月31日17:59)


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2009年3月 5日 (木)

僧侶の意識改革

『中外日報』(2月17日付)に、新潟市の曹洞宗住職・加藤朝雄氏の、僧侶への厳しい指摘が掲載されていました。

加藤氏は、布教の対象について、「ありがたいありがたい」と寺にやってくる門徒だけでなく、ズバリ、生き、苦しんでいる、一般市民にこそ斬り込んでいかなければならないのではないかと指摘しています。

伝統宗派には大抵「布教師」と呼ばれる人たちがいます。しかしこの人たちは誰に「布教」をしているのでしょう。おそらく寺院の中で、僧侶仲間や寺族、檀家役員、熱心な信徒たちに向かって説教をしているのではないかと思います。本当に布教せねばならないのは、そういった人たちではありません。寺院に足を向けず、説教など聞こうともしない人たちこそが「布教」の対象なのではないでしょうか。現在、人生に悩んでいる人が行く先は寺院ではありません。「駆け込み寺」という名前の市民グループです。そこで悩みを聞くのは、医師や弁護士、生活相談員といった人々です。本職の僧侶でさえ、そういう所に悩みの相談に行く例があるそうです。伝統宗派の「布教」のあり方は考え直すべきではないでしょうか。
われわれ僧侶は誰に向かってお経を読むのでしょう。死んだ人への読経も大切ですが、生きている人へお経の意義を説くことが本来やるべきことではないでしょうか。

また、「自分の寺には、熱心な門徒がいて、支えてくれるから安心だ」と、傲慢になる僧侶も、このご時世でいまだに存在するというのです。

新たに住職に任命される僧侶の最大関心事が「食べていける寺か」「出世できる寺か」というものになっていると聞きます。寺院を盛り上げることより、初めから寺院にぶら下がろうとする気持の表われです。
また寺院という財産や住職という肩書にしがみつく僧侶も増えています。行きもしない兼務住職地を離さず「小さな寺でも二つ三つ合わせればいい収入になる」と公言する人もいます。
また封建時代そのままのような感覚の僧侶もいます。「檀家は住職の言うことを聞き、住職を支えるお金を納めるべきだ」と豪語する僧侶に出会いました。寺院は住職の城ではなく、檀家も家来ではありません。自然に檀信徒から支えてもらえるような活動を目指すべきではないでしょうか。

一般人からすれば信じられないような話ですが、こんな住職だからこそ、よけいに人々は寄り付かないのでしょう。世間は敏感です。
あぐらをかき、行動しない僧侶をただし、そして自らを律し、本当の親鸞聖人の教えを伝えていかなければなりませんね。


※おまけ

先ごろ麻生総理が使って非難された「さもしい」の語源は「沙門しい」です。物を欲しがるばかりで生産的なことをしない人に対する悪口ですが、現代の沙門はどうでしょう。

これは知りませんでした。勉強になりました。

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